若松が舞台となった競技
ゴルフの愉しみ方は多彩だ。メンバー同士、友人・家族とのプレー、仕事仲間との交流。旅行。
それぞれの目的でプレーを愉しむことができるが、ゴルフの原点は競技スポーツである。
若松ゴルフ倶楽部も古くから競技が盛んで、岡部太郎(1987年日本学生ゴルフ選手権 優勝)、米倉和良(1992、93日本アマ優勝、93日本マッチプレー優勝)と日本タイトルを持つ選手二人を倶楽部から輩出している。
開催コースとしても65年の歴史の中で数多くの競技の舞台となった。その中で、特筆すべきは、「第94回 日本アマチュアゴルフ選手権」(2009年7月8日(水)~7月12日(日))と「東西対抗チームゴルフ選手権」の開催コース(1998年 第1回~)となったことである。
若松GCで開催された日本アマチュアゴルフ選手権
若松GCの発足12年後の1971年、九州ゴルフ連盟(GUK)が結成された。以来、数々の連盟主催競技の会場となり、九州ゴルフ界を盛り上げてきた。
そして、公式競技といえば、「若松」での最大のイベントは2009年の開場50周年記念にあわせて開かれた第94回日本アマチュア選手権だろう。競技は7月8日(水)、全国の142選手が出場して開幕。予選2日間のストロークプレーで上位32選手を選抜、3日間のマッチプレーを戦った。現在世界で活躍する、当時学生だった松山英樹、小平智も出場していた。
強風(初日)やコースが煙るほどの豪雨(3日目)に見舞われるなど、コンディションには恵まれず、最終日の決勝36ホールマッチも気温が31度と猛暑の中。日大3年の宇佐美祐樹と13歳の最年少決勝進出で話題となった伊藤誠道が対決した。
試合は3ホール目でリードを奪った宇佐美が、前半の18ホールを4アップとして後半に入った。伊藤もあきらめずに食い下がったが、宇佐美の優勢は変わらず、6アンド5という大差での決着となった。宇佐美は6度目の挑戦での初優勝だった。
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左から川村昌弘(3位)、宇佐美祐樹(優勝)、
伊藤誠道(2位)
日本アマチュアゴルフ選手権を振り返って
~競技を尊重した若松ゴルフ倶楽部~
忘れてはならないのは、日本アマチュアゴルフ選手権開催コースが決定した時の若松ゴルフ倶楽部メンバーの競技に出場する選手を尊重した決断があったことだ。
開催日程を水曜日~日曜日とし、日曜日は、決勝戦を争うプレーヤー二人だけのために(当時はマッチプレー)貸切とした。それまでは、アマチュア最高峰を決める大会でありながら、日曜日を避けて、火曜~土曜日に開催しており、決勝日の土曜日はマッチプレー開始後(決勝戦と3位決定戦)に一般営業を行っていた。それは開催倶楽部の土日の収益確保や、所属会員のプレー機会確保の声を考慮したものであったはずだ。
しかし、若松ゴルフ倶楽部は、決勝まで残った選手に敬意を表し、決勝を日曜日とした上に、残った選手の為だけの貸切営業とすることで、より集中した環境で、最高のプレーをしていただくことを選択した。近年の営利重視の風潮の中で、日本アマという伝統ある競技を重んじた若松ゴルフ倶楽部のメンバーの英断は、選手に感謝され、多くの関係者を感嘆させることとなった。
- 会員・従業員の協力で成功に導いた
- 松山英樹、小平智選手も出場
「若松」が復活の舞台となった
「鍋島杯 東西対抗チームゴルフ選手権」
その昔、「アマチュア東西対抗競技」という大会があった。
昭和の初めに第1回大会が開かれたこの試合は、ある時代には赤星四郎、六郎兄弟、その後は中部銀次郎など、その時代時代のトップアマが名を連ねる、トップアマの団体戦であった。この大会が姿を消して約数十年。鍋島直要氏の名を冠し復活した。その舞台が、若松ゴルフ倶楽部となった。復活した第1回大会(1998年)以後、西日本では「若松ゴルフ倶楽部」、翌年は、アマチュアゴルファーの誰もが憧れる「軽井沢ゴルフ倶楽部」と交互開催された。
全国の社会人トップアマチュアと数名の学生代表ゴルファーには、後にプロで活躍する宮里優作、上井邦浩なども出場した。若松ゴルフ倶楽部開催時には、多くの会員が前夜祭や応援に駆け付け、東日本チームの応援に訪れた軽井沢ゴルフ倶楽部や東京ゴルフ倶楽部のメンバーと交流が深められた。「鍋島杯 東西対抗チームゴルフ選手権」は、若松ゴルフ倶楽部に多くの財産を残してくれた。
- 第5回大会(若松GC)西軍選手を囲んで
2列目左4人目から、
鍋島大会会長、河野理事長(当時)
第1回鍋島杯東西対抗チームゴルフ選手権
1通のファクスが、福岡県北九州市・若松ゴルフ倶楽部の河野拓夫理事長に届いた。
文面は、『・・・・・・さて、「第1回鍋島杯東西対抗チームゴルフ選手権」を10月7日(水)、8日(木)開催するにあたり、名門若松ゴルフ倶楽部のコース使用をお願い申し上げます。
この大会は、非公式ではございますが、われわれアマチュア界の大先輩でもあり、あらゆる面におきまして、ご指導いただいております、鍋島直要氏(東京ゴルフ倶楽部)の冠名を頂き、約30年前に消滅しました「アマチュア東西対抗競技」の復活を目指し、また、ゴルフ界全体およびアマチュアゴルフ界の歴史と伝統を守るべき大会に育てようと考えております』という協力のお願いであった。
「アマチュア東西対抗競技」という大会を知っている人は、ほとんどいないかもしれない。この大会の歴史は古く、昭和2年、いまから71年前に始まった公式戦である。日本を東西に分け、各12名(うち補欠2名)で競われた。第1回会場は茨城だった。それから程ヶ谷、鳴尾、東京・・・・・・と名門コースで開催された。大会記録を見ると、いまでは日本ゴルフの歴史上人物がほとんど網羅されているほどの大会が、毎年続いていた。この大会は、日本オープンと同じ会場で、日本オープンが始まる前に開催されていた。けれども、1970年の四日市での大会をもって終了することになってしまったのである。
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選手のプレーを見守る鍋島大会会長と
相馬軽井沢GC理事長(当時)
アマチュア界活性のために立ち上がった
アマチュア界の選手たちに人望が厚かった阪田哲男が、「僕は東西対抗の経験がないんですよ。僕がアマチュア競技会に出てくる直前に終わってしまったんです。ですから、アマチュア界活性のため、非公式ながら東西対抗復活を目指して、いちアマチュアゴルファーとして貢献できないかと提案したんです。そこで鍋島さんにお願いして冠名を頂いたんです」
阪田の盟友の尾家清孝、岡部太郎の3人が中心となり呼びかけを行い賛同者が増えた。それが『鍋島杯チームゴルフ選手権』だった。鍋島氏がカップを提供し、富士ゼロックスの小林陽太郎氏から、勝ちチーム選手全員の盾が提供された。「驚いたのは、若松ゴルフ倶楽部の協力でした。ゴルフ倶楽部としての在り方など、すべてがとても洗練されていてすばらしいものでした。いいセッティングで競技をさせていただきました」 鍋島氏は、その対応に感激したと語った。しかも、メンバーをはじめとするギャラリーも集まって、選手たちからも「こんなに集中してゲームをしたのは久しぶり」という声が続出した。それがチームプレーのおもしろさだ。しかも東西対抗なら、なおさらである。
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チームで協力してラインを相談する
宮里優作選手(左)、野上泰生選手(右)
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第5回 鍋島杯東西対抗前夜祭(西日本工業倶楽部にて)
過去の歴史の上に新たなる歴史を重ねる
アマチュアゴルファーにとって、チームプレーのおもしろさを味わうというチャンスは、まずないのである。でも一度チームプレーを経験すると、その魔力にどんどん惹かれていく。きっと参加した選手たちは、そんな気持になったのだろう。レセプションや表彰式を兼ねた、ささやかなパーティ。ここでも、折り目正しい中にも和やかな風景があった。「特に西日本工業倶楽部のすばらしい建物の中でのレセプションは、忘れられないひとときでした」と鍋島氏は語った。
日本のアマチュア界の歴史や伝統は、ともすれば軽視されがちである。けれども、もう一度振り返ってみると、過去の名手たちのすばらしさが、いつだって浮き彫りにされるのだ。この大会は、そんな一面を伝承してくれた。